町の賑わいから少し離れた通りに、神殿の如く佇む処があった。通りに面する太い柱には、『冒険者ギルド』と書かれた看板が立てかけられている。その前には二人の男女。南からやって来たのは、全身を黒衣で包んだ人間だった。きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回しては、ほぉだとかへぇだとか、感嘆の声を漏らしている。その声は若い男のもので、声変わりを終えてもなお、少年らしさを残しているようなあどけなさがある。
そして北から歩いてきた少女はそんな青年を横目に見ながら、看板と建物の奥へ交互に視線を移していた。年端もいっていなそうな小柄な体躯に、腰まで届く桃色の髪を頭の横高くで二つ、ハーフアップに束ねている。薄ぺらい医療品用鞄を肩から提げてはいるものの、冒険者というものからは程遠い風貌である。それでも看板を何度もじっくりと見、間違いはないと確認する。
「…あのさー!」
少女が意を決して建物内に足を踏み入れようとしたその瞬間、背後から声がかかった。振りむけば、ローブをまとった青年だ。少女にまっすぐ視線を注ぐ瞳は、青い焔を籠めたように光を放っている。
「あ……わたし、ですか」
少女は非常に思いがけなかったようで、周囲に他人はいないにも関わらず、青年に戸惑いの目を向けている。青年は被ったローブを小さく上下に揺らし、親指で看板を指した。
「あんた見てた、これ…何?」
ローブの陰から覗く瞳は純真で、声色からも少女をからかう様子は伺えない。だが、少女は困惑した。
これ、と青年が指しているのは誰がどう見ても石板に大きく文字が刻まれた看板だ。何、とは何のことを聞いているのか、少女には理解出来なかった。青年は自分の言葉に疑いを持たず、意図が伝わっていないなどと夢にも思っていないように、じっと少女の言葉を待っていた。その様子に聞き返す勇気も無く、え、あぁ、としどろもどろに言葉の欠片を繋げていると、ふいに一つの考えが頭をよぎった。もしかすると、彼はこの文字が読めないというのだろうか。
いやまさか、自分より頭二つ分ほども大きな青年だ。そういえば、ローブは古くあちこちが擦り切れていて、唯一覗くことが出来る目の周辺には、故郷の街ではほとんど見かけない、焦茶色の肌が見え隠れしている。どこか遠くからやって来たのかもしれない。
しかし言葉は通じているのに、同じ言語の文字が読めないということなどあるのだろうか…。聡明であるも世間を知らない少女は、答えの出ないまま必死に頭を回したが、適当な繋ぎの声も出なくなり、ついに青年の視線に耐え切れなくなった。
「冒険者、ギルドって……」
書いてますけど。馬鹿らしい、そんなの分かっていると笑われるかもしれないと思うと、自然に目は伏せられ、声は頼りなく消えてゆく。斜めにかけた焦茶色の鞄紐を掴む小さな手に力がこもる。顔を朱に染めうつむいていると、やがて前方から青年の、不思議そうな声が飛んできた。
「これがぁ?ふーん…ぼーけんしゃ、ぼーけんしゃ、ぎる……」
ピンとこないのか、青年は中腰で石の看板をべたべたと触りながら少女の言葉を反芻している。すると突然、あっ、と叫ぶと同時に、弾かれたように背を反らした。反動で頭から滑り落ちたローブを気にもとめず、再び少女の方へ首を回した。切り揃えられておらず、様々な方向へと重力を無視して伸びた薄いクリーム色の髪と、その先からおさげのように細く伸びた、色とりどりの髪飾りがぶんと振れた。真昼の光をより強く浴びた大きな瞳は宝石の如く光り、丸く見開かれている。少女は、予想していたことのどれともつかない奇怪な行動をとり続ける彼に、不審や驚きなどを超えて、不気味な怖れを抱いた。
「それ、この中のことだろ⁈ボーケンシャギルドって、オレが探してるやつだ!」
と、青年は少女の後方に広がる建物をびしりと指差し声高に叫ぶ。戸惑う少女は後ずさる間もなく押しのけられ、中のカウンターらしき石台へ一直線に駆けていった。少女は鞄の紐を握りしめる手のひらにじわりと嫌な汗が滲むのを感じながら、小さくため息をついて青年のあとを追った。
「…なんでだーれもいないんだよぉ、開いてないのかなー……」
『冒険者ギルド』へ入って五分…十分経っただろうか。青年はぐったりと部屋の一角で石壁に背を預け座り込んでいた。桃色髪の少女もまた、その対角線上にある片隅で壁にもたれ、眉の上で切り揃えられた横から、ウェーブがかって長く垂れた髪先を指先で弄んでいる。この空間に居るのは彼らだけで、それ以外に居た者も、来た者もいない。
青年は建物内に入ってすぐは、それこそ子供のようにはしゃいで、中にある調度品やオブジェを一つひとつ見て回っていたが、それもすぐに飽きたらしく、今はこの有様である。ここを管理している人物は、手洗いにでも行っているのかもしれない。それならば妥当な時間だ。だからほんの十分やそこらでそう叫ぶのは、あまりにせっかちで非常識ではないだろうか、と少女は心中で毒づいた。
「なあー…」
することをなくした青年が、興味の対象を少女に向けようとした時、カウンターの奥から地を揺らすような足音が響いた。
やがて、カウンター脇の闇からぬっと現れたのは、古代書に記される神を思わせるような、筋骨隆々の大男であった。
「おお、客か?すまんな、野暮用で空けてしまって」
黒々と光るほどの濃い褐色肌に映える、長い銀髪を束ね、待っていた二人を見渡している。
「あっ」
青年は跳ねるように立ち上がると、素早く駆け寄ってカウンター越しに男と対峙した。
「そうだよぉ、おっさん。オレ達すげー待ってたんだぜ!」
少女は壁にもたれて二人を眺めながら、青年のあまりに礼儀知らずな口ぶりに胃を縮めた。しかし建物の支配人であるらしき大男は別段気を悪くした風でもなく、逆に威勢の良い青年を見据え、豪快に笑った。
「ふっ、元気がいいな。先程やってきたという旅の冒険者はお前か?…ようこそ、タルシスへ」
男は鼻の下から口の脇にかけて整えられた髭と共に気分良く口角を上げ、日に焼けた逞しい右腕をカウンターの上に差し出した。しかし青年は、握手には応えなかった。差し出された腕を不思議そうに一瞥したのみで、すぐにまた、満面の笑みを浮かべてギルド長を見上げた。
「あっはは、そうそう、それ!ボーケンシャになりにきたんだよ。んー…でもなんでそんなこと知って……ん、やっぱ目立つ?これ」
青年は己が身に纏った黒衣をまじまじと見つめたかと思えば、いきなりバサバサと大仰にローブを揺らし足元に落とした。すると一転して、鮮やかな衣装が現れた。先ほどまで青年とギルド長のやりとりを遠巻きに見ていた少女は驚いて、思わず声を漏らした。
先ず目を引くのが、首元をぐるりと覆い、そこから足元まで前後に長く垂れた分厚い布だ。砂漠色の生地に、赤や青や黄などの色とりどりの刺繍が、布を覆い尽くすほどに施されている。その一色一色は色褪せたようなシックな色合いではあるものの、それらが細かく縦横に、複雑に絡み合った色彩はちかちかと目を刺激する。
腰あたりには布が広がらないようにか、えんじ色の細いベルトのような紐で一線が引かれているが、そのくくり目であろう左側面からは髪にもつけているような、また刺繍糸を片側だけ束ねたような、飾りがごってりと垂れ下がっている。その中に埋もれるように携えられた一振りの短剣だけが、革の濃茶と金属の鈍色だけで構成されたシンプルなものだった。
そしてそんな上衣の下に見える服は刺繍は控えめなものの、これまた厚く重たそうな生地で出来ている。肩口からゆるりと広がる袖は手首までを覆い、赤と黄の糸で隙間なく埋められた袖口は、腕三本程度を軽く通せそうなほど広い。上衣の横から覗く、ゆったりとしたズボンは黒一色の地味な装いだが、キュッと絞った足首から見える布靴はまた、色とりどりの刺繍が施された物である。
民族めいた色彩も模様も少女の目には新しく、呆気にとられ、立ち尽くした。職業柄、さまざまな人間を見てきているだろうギルド長さえも、そのギャップにいささか驚いているようだった。
「あは…しょうじきあの服暑かったんだよな。ここなら、いろんな奴いたし、こっちの方が目立たないとおもうんだけど。な?」
にこにこと同意を求めて首を傾げる青年の瞳には冗談気などまじっておらず、ギルド長は返答に困ったようで、口を手で覆いながら、ん…あぁ、と濁った答えを返すのみであった。
そのやりとりが少女にとっては愚かで滑稽で、思わず零しそうになった嘲笑を、こんこんと咳で紛らわした。そんな二人の真意にも青年は気づかず、またうるさいほどの声をあげ、ギルド長に詰め寄った。
「あっ、そうだ、それでさそれでさ、ここって何するとこなんだ?」
屈託の無い表情を浮かべた青年を前に、ギルド長は言葉も出ないでいるようだった。
「そ、そんなことも知らないで…!」
勢いのままに、という風に、少女は小さく叫んだ。青年がきょとんとした顔をこちらに向けるまで、そのことにさえ気づかなかった。しまった、と慌てて口をおさえて、続けて出そうになった罵声を呑み込む。
「ここは冒険者ギルド。冒険者たちが技術や情報を共有し、行動を管理する…互助会のようなものだ」
青年の意識が逸れ、やっと普段の調子を取り戻したらしいギルド長は、片眉を上げて答えた。
「ゴジョ、カイ………」
ゆっくりと頭を戻しながらも、青年が浮かべていたのは怪訝な表情だった。その意味を介していないのであろう、頭の上にはクエスチョンマークがいくつも飛び出している。そんな彼を横目に、桃色髪の少女もちょこんと、カウンターの前へと歩み寄ってきた。
「その…冒険者になるのは、ギルドに入ってから、ってことなんですか?」
少女がおずおずと尋ねると、ギルド長は灰色の髭を撫でながら、うむ、と唸った。
「この街で冒険者として活動していくためには、ギルドを立ち上げる必要がある。その覚悟があるのならば、まずは台帳にーー」
ギルド長がカウンターの下から和綴じの簡素な帳簿を取り出した時、ふと言葉が途切れた。そして、青年と少女の間へ向かい、おぉ、と声を投げる。二人が振り返るとすぐ間近に、長身の男の姿が迫った。二人が驚く間も無いまま、男は素早い動作で間に割り入り、荒々しくカウンターに右腕を突き立てる。少女と青年に一瞥ずつ目をやると、すぐにまたギルド長へ向き直った。細い身体に長めの黒髪を束ねた、女と見間違えそうな容姿に似つかわしくない、威圧的な瞳。その目に一瞬睨めつけられた時、少女は肩を震わせた。自分が何かしたのだろうか、と心当たりも無いのに胸の鼓動が高まった。
「なんだ?こいつら」
青年の方を親指で示し、ギルド長に尋ねる。知った顔なのだろう、ギルド長はいたって冷静である。
「ああ、この子らも冒険者になりたい、とな」
僅かに、男の片眉が吊り上がった。再び青年に目をやり、少女を見た。薄い唇の端がぐいと持ち上がる。しかし鋭い、獲物を射殺すような目つきは変わらず、少女は心臓を縮みあがらせた。
「おいガキ、お前これ書け」
男は不躾に言うと、カウンターに置かれていた台帳を手に取り、青ざめる少女の目の前に突き出した。少女が状況を掴めず硬直していると、更に、鼻先まで台帳が差し出された。
勢いに押されておずおずと手に取ると、次いでカウンターに出された、軸の長いペンと、黒いインクの小瓶も乱暴な手つきで腕の中に落とされた。救いを求めてギルド長に視線を送ってみたが、ギルド長も男を止める気は無いらしく、少女の背後を指差し、カウンターよりも随分背の低い記入台へと誘った。少女はがっくりと項垂れるも、断る勇気も無いままその台へ歩み寄り、一式を丁寧に置き揃えた。
くすんだ赤地の表紙から、順に素早くページをめくっていく。個性的な文字達を目の端に留めながら、流れるように左手を動かす。やっと空白のページに辿りつくと、少女は慎重に、項目に目を通していった。
「…あの……」
控えめに振り返り、黒髪の男へのつもりで言葉を投げかけた。
「あの、ギルドの名前って……」
腕を組み、離れたところから壁に寄りかかって少女を眺めていた男は、眉をひそめた。
「あ?知らねぇンなもん。適当に書いといてくれ」
人に頼んでおいて、なんてふてぶてしい態度なの。そんな言葉が出かかった。少女はその小さな体躯に比べ、意外と気が強いらしかった。だが、男の方へ振り向いて、睨めつけるだけにとどまった。というより、こちらを監視している鋭い瞳と視線がかち合った瞬間、その度胸が失われた。
悔しげにノートへと向き直り、『ギルド名:』と書かれた欄を改めて見つめる。とりとめもない文字の羅列が頭を巡るが、ふと、とある単語を記憶から発掘する。
アマルテイア。
よく、こういった名付けには、加護があるようにと、神話の固有名詞から取ることが多い。昔に読んだ有名な神話の、全知全能の神を育てたとされる女神の名前だった。これなら他と被ることもあまり無いだろうし、後ろの男から文句が出ることもないだろう、と静かに頷いた。この辺りの発音ならば、と少し綴りを変え、端正な文字を書きつけた。あとは、メンバーの名前だけだ。
「あの、書いたんで。じゃあ」
言って、台帳をカウンターへ置く。一直線に出口へと向かった。ここには、居たくない。しかし願い叶わず、足を止められた。がっしりと、肩を掴まれている。
なにかは予想がついていた。振り向けば、例の男が見下ろしている。
「どこ行くんだよ」
自分が此処にいて当然、とでも言うような口ぶりに、ついに我慢しきれなくなった。
「あ...あたしがなんでっ、あなたたちと居なくちゃいけないんですかっ」
強引に肩の手を振り払い、正面から男を見据えた。目が細いからか、表情にあまり変化はない。しかし、呆気にとられているように見えた。
「お前、冒険者なりにきたんじゃねえの」
男は腕を組み直しながら、訝しげに聞いた。
「それは、そうだけどっ......」
図星をつかれ、口ごもる。しかし、自分を見下ろし、冷ややかな目線を向ける男を見て、何かが吹っ切れた。
「でも......でも、命をかけるのよ。...あなたみたいな人とは、戦えない!」
さっきまでの怯えは、どこかへ消えてしまったらしい。叫びにも近い声で言っていた。
「は......何も知らねえうちからよく言えんな。ンなんじゃあ、一生どこにも入れねえぞ?」
あからさまな嘲笑。頭に血が昇った。
「あたしは!死ぬわけにはいかないのよ!命を預ける人は自分で選ぶわ!」
目を見開いて、男にくってかかった。顔を真っ赤にして叫ぶ。
「......あっそ。けどそもそもなぁ、他人に命を預けるなんて考えること自体、どーかしてんだろ」
手首を顔の側で揺らしながら、男はあからさまに不快を示している。しかし、意志の揺らがない少女の瞳を見て諦めたのか、首を小さく横に振った。
「...ま、そこまで言うならいいけど。口先だけの奴なんざ、どうせ足手まといになるだけだ」
少女の手が、わなわなと震えていた。
「馬鹿にしないでっ!誰が足手まといよ!」
先ほどよりもいっそう、声を荒らげる。男もそれに呼応してか、だんだんと語気が強まっていった。
「あぁ?何が違うってんだ、ロクに戦ったこともねえガキが。何を根拠にンなこと言えんだよ」
「出来るもの!あたしはメディックよ。医者になるために此処に来たの。治療も、手術の仕方も全部知ってるの。自分の仕事くらい、完璧にやってやるわよ!」
「いくら知ってようが、実際使えなきゃ意味ねーんだよ。認められたかったら、実戦で証明しろってんだ、バーカ」
ハアハアと、少女は息を継いでいた。このまま口論しても完全に納得はさせられないだろうと考えたのか、まだもの言い足りない口をつぐみ、ひときわ気合いを込めた目で男を睨んだ。
そして肩を怒らせたまま、つかつかとカウンターへ歩み寄る。顎髯をさすりながら、心配そうにやりとりを見つめていたギルド長には目もくれず、置かれたままの台帳とペンを掴み取った。無言で、しかし始終怒りを顕わにしながら、短く用紙に書きこんだ。終わるや否や再びカウンターへ置き直し、くるりと身体を反転させる。
「...見え見えの挑発だろうが、そこまで言われて引ける人間じゃないの。絶対......絶対、見返して土下座させてやる!」
叫んで、最後にもうひと睨みした。
「...一ヶ月の内に使いものになったら、誉めてやるよ」
男は目を弓なりに細めて、鼻で笑った。
「やっと終わった?」
褐色肌の青年が立ち上がった。二人の様子を、座りこんで眺めていたようだ。険悪なムードも意に介さない、明るい声だった。
「...ていうか、オレも居ていいんだよな?」
黒髪の男に向かって、ヘラッと笑った。黒髪の男と並んで立つと、肌の色、髪の色、顔立ち全てが対照的だった。
「元からそのつもりだよ。前に立たせるからな」
男は冷ややかな態度で、カウンター上に置かれたペンを掴みながらきっぱりと言い放つ。だが青年は気にした風もなく、にこにこと男に笑顔を向けている。
「うんうん、任せろって。狩りは得意だったしさ」
胸に拳を当て、誇らしげに言った。男はそんな彼に目もくれず、ゆっくりと台帳に文字を書き始めていた。少女は、その様子を、苦々しい表情で見つめていた。信じられないものを見る瞳だった。男が、不器用な幼児のように、手のひらでペンを握りこんで書いているのだ。ただ名前を書きつけるだけなのに、それとは思えないほどの時間を要した。
「、ん」
男はなんとか書き終え、隣に立つ青年にペンを差し出した。しかし青年はすぐにはそれを受け取らず、じっとペン先を眺めた後、おそるおそる、棒切れでも持つようにつまんだ。黒いインクが指先を染め、滑って取り落としたペンを、男が慌てて掴み直した。
「ばっ...なんでそんなとこ持ってんだよ、テメエ!」
勢いもあってか、きつい口調で青年に怒鳴ったが、当の本人は悪びれた様子もない。黒くなった指先をぽかんと見つめていた。そしてあろうことか、その指先を口に含んだ。すぐに顔をしかめ、「まずい」と舌を出す様子を見て、男は呆気に取られるしかなかった。
話にならないと察したのか、次に男は先ほど口論したばかりの少女に向かい、ペンを放り投げた。少女はわたわたと両手を動かし、なんとかそれをキャッチした。思わぬ出来事に冷や汗をかきながら、男に目を向けると、小さく笑っていた。例の、意地悪い笑みだった。
「ほれ、書け」
台帳を指差し、さっきの口論などなかったかのように命令した。その態度に、少女は小さな頬を膨らませた。
「...あなたが書けばいいでしょ」
渋々カウンターにつきながら、ぼそりと呟いた。わざとであるのか、男とは間に人ひとり入るほどもない距離だ。当然聞こえているだろう。
「ふん、無理だから言ってんだろ。俺は自分の名前しか書けないの、でなきゃわざわざ頼んだりしねえよ」
「自慢にもならないこと、そんな堂々と言う人初めて見たわ。...恥ずかしいと思わないの?」
腕を組み、イライラとした視線を向ける男を横目に、少女は再び帳簿を手にした。
己の筆跡とは明らかに異なった、太くて大きな字だけが目に飛び込んだ。自分が空けていた、ギルドのリーダー名を記入するべき欄に、成人のものとは思えない、たどたどしい文字で書きこまれていた。「汚すぎる...」と、少女は、考えるまでもなく自然に、感想を洩らした。
「お前、また喧嘩売ってんのか?」
「...別に。そんなつもりないけど。本当のことを言ってるだけじゃない、リーダーさん?」
今度は少女の方があしらうように、冷ややかに言った。そして、インクが落ちないのが気になるのか、じっと眉根を寄せて指先を見つめている青年に目を向けた。
こんな状況でなければ、こんな人間と関わり合いになど絶対なりたくない、と心から思った。
「で、なんていう名前?あなた」
言われて、顔をあげた彼と目がかち合った。丸くて大きな瞳は、本当に宝石のようで、力強い。その光に少女は圧倒されそうになりながらも、何か言葉にできぬ狂気を感じたような気がした。しかし直後、にこやかに笑う表情は無邪気な少年のものだった。
「オレ?オレは、ヘルセ」
「スペルは?」
そう言うと、青年はピンとこないのか、穏やかな笑顔のまま、かっくりと首を傾げた。少女もなんとなく予想はついていたものの、それでも苦々しく眉をひそめ、下を向いた。
「......ヘルセくん、ね」
すっかり呆れたように呟き、それらしい文字で記した。当の本人は、未だ疑問符を浮かべていたが、答えが帰ってこないであろうことを悟ると、顔を上げ、隣で少女を見下ろす男の顔を覗きこんだ。ギョッとして退いた男を正面からまじまじと見つめ、そしてにっこりと顔を綻ばせる。
「よろしく。お前は、なんてーの?」
「......シノーペ」
短い返答。品定めするように、男の方もじっと青年の顔を見返した。
「あはっ、変な名前。ていうかさ、女?男?」
瞬間、シノーペが硬直した。そして横の少女はくすっと吹きだした。そんな彼女をジロリと睨みつけてから、シノーペは青年に詰め寄った。
「あのなあっ、どうやって俺が女に見えるってんだよ、あぁ?」
語気を荒らげて言い放つ。しかしヘルセは意外そうに、目を見開いた。
「えーっ、だって、そんな風に髪結ってる奴、女しか見たことないし。それに、すげーひょろいじゃん」
悪気はないのか、にこにこと遠慮もなく言ってくる青年に、シノーペは完全に気を悪くしたようで、眉間の溝を更に深く刻ませていた。
「...男、だよっ、これでも!あと、変な名前で悪かったな...」
わなわなと拳を震わせながら、ふいと顔を逸らす。ヘルセはなおもきょとんとした表情で、「別に、悪いなんて言ってねえじゃん」とぽかんとしていた。
「あ、お前」
シノーペが声を上げた。視線の先に、長い金髪の男が棒立ちで佇んでいた。先刻、郊外で拾ったイングワズという男で、共に入ってきたのだったが、全く存在を忘れてしまっていた。入り口付近にぼーっとつっ立って、一言も発さずにいたらしく、気配を消しているようだった。自ら動く気配はない。仕方ないので、つかつかと歩み寄り、しっかと腕を掴んだ。
「そうだ、お前、こいつの名前も」
イングワズを引っ張りながら、少女に言う。シノーペよりも全体的に一回り大きな身体で、無気力といった印象だ。少女は最早口答えをすることも諦め、小さくため息をついただけだった。
「はぁい......あなた、名前は?」
大きく首を仰け反らせ、なんとか目の前に立つ大男の顔を視界に入れながら、少女は声をかけた。表情も変えず、覇気のない薄いブルーがこちらを見下ろしている。何を考えているのか少しも読みとれない。だが、唇が、小さく開いたのが見えた。
「名前は、イングワズ」
低く、落ち着いた声だった。そして、それだけ言うと、もう口を開く様子はなかった。
「イングワズ、と...。うーん、じゃあね、イングさんって呼んでいい?」
「ああ」
小さく頷く。ただ、それでも表情は変わらない。あまりの鉄仮面さに、少女は彼にもまた、不思議というものを超えた気味の悪さを感じた。
意気揚々と、このタルシスの街へ来たはずなのに、何故すでに後悔し始めているのだろう。不遜な男に、世間知らずの青年、そして何も考えていないような男。此所、タルシスには様々な人間が集うと聞いてはいたが、どうしてこんな変人ばかり揃っているのだ。しかも全部男。不安が募るばかりである。
「はぁ......えっと、わたしはスィオネです。正直、この上なく不本意ですけど...こうなったからには頑張りますから、よろしく」
口を尖らせて、三人に呟いた。語気は弱いが、睨みつけるような視線を三人に回した。笑っているのは、一人だけだった。
「ふん、やっと揃ったな......じゃあ行くか。これでいんだよな、オッサン?」
相変わらず表情は厳しいが、そう言うシノーペの声には、どこか喜色が見えていた。カウンターの主は、こういったいざこざには慣れているのか、動じていないようだった。控えめに笑いながらも、小さく首を横に振った。
「...何人で冒険に出るかはお前らの自由だが、当冒険者ギルドでは、余程の腕自慢でない限り、5人パーティでの迷宮探索を推奨している」
言い慣れているように、淀みない言葉が発される。シノーペはいささか面喰らったのか、細めた目で、周囲の面子を見渡した。
「いち、にー、さん、しー、ご」
一人ずつゆびを指して確認し、最後に人差し指をぴんと立てた。
「...あと一人か」
指先を見つめ、シノーペは不満そうに呟いた。その様子に、ヘルセは不思議そうに声を上げた。
「ん?メイキュー行かねーの?」
「行かねー。あと一人要るんだってよ」
眉を顰めながら、考えるように唸った。ゆっくりと、出口へと足を進める。それに、あとの三人も続いた。
「じゃあ、とりあえず情報が集まるところに行くものじゃないかしら。あ、ありがとうございましたっ」
スィオネが、ギルド長にぺこりと頭を下げながら、不安そうにアドバイスを投げかけた。シノーペから反応はなかったが、行き先に迷いはないらしく、徐々に早足になっていった。
完全にリーダーの独断であるが、最後のメンバーを集めるべく、協調のとれない四人は、つらつらと鴨の雛のように、列をなして歩いていった。
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