抜けるような快晴である。そよ風が地面を覆う草を撫で、雲は一つとして見当たらない。ペンキでムラなく塗りたくったような水色に、幾筋と射し込む太陽の輝きはまるで絵画のようだ。あまりにも出来過ぎた、そう、欠けるものの無い真実は、逆に嘘や夢ではないのかと疑いたくなる、人間の心理に訴えかけてくるかのような空模様であった。
そこへまた、出来過ぎた物語のように一人の男。広大な緑の真ん中に寄り添い合うようにして出来た建物群から出来た巨大な都市の一角から、小さな点として飛び出してきたその男は、中背よりやや長身で、男にしては線の細い、優男といった見目だった。肩ほどまで伸びた艶のない黒髪を色褪せた細い赤リボンで束ねているのが、色気は無いけれども、中性的な雰囲気を与えている。簡素な木造りの半弓を持ち、背負った矢筒に差した十数本の矢をガラガラと音立てながら、街外れに並び立つ木々の中に駆けて行った。
街を飾るように等間隔に植わった木々の幾本目かに、他とは明らかに違ったものがあった。太い幹の中ほどはくすんだ白色と赤茶色がまだら模様を描いている。皮が剥けている、というよりも抉れていると言っていいほどで、それは何十何百と矢が射られた証だ。男のお気に入りらしく、その木を見つけるや否や、百メートル弱の距離を置いたところで足を止め、矢をつがえ始めた。息は乱れていない。荒れた幹の中心に、あまり窪んでいない島が小さくある。そこから目を離さずに弓を絞り、吊り上がった眼をすうと細めた。研ぎ澄ました神経で百メートル先を探り、指を本人にしか分からない範囲に調整してゆく。
そこで、ふと違和感に気づいた。目には自然の移ろいしか入っていない。しかし、本能が何らかの気配を察知したのだ。眉をひそめ、二の腕に込めていた力をゆっくりと緩めた。
「誰だぁ?そこいんの」
いつでも跳び退けるように警戒しながら、さっきまで自身が狙っていた木へ近づき始めた。木の後ろに違和感の正体が、人がいるはずだ。と確信に近い予感を抱き、声をかけ続ける。
「どっか行けよ。そこ、虫落ちてくんぞー?」
しかし何一つ反応は返ってこない。男は不信感を高め、右手の鉄矢を短く持ち直した。人ではないのかもしれない。万一の時は接近戦というわけだ。木まで半分ほど近づいたころにはもう声は発さず、息を殺していた。木まで辿り着くと静かに腰を落とし、右手を胸の横に構えた。
タイミングを見計らい数秒止まったかと思うと、野生の獣を彷彿とさせる俊敏な動きで木の右側面を廻りこむ。あっ、と思ったが既に遅く、頭に描いていた行動をキャンセルすることは不可能であった。視界に入った大きな塊に左腕を伸ばし、のしかかるように飛びついた。突然の出来事だったからか、それは抵抗もせず、男の衝撃を受けて地に崩れた。
「あぁっ⁈やっぱ人間じゃねーか!」
自身の下敷きになった、人間。浅葱色に包まれたそれの首に左腕が絡み、男の胸板はおそらく、その大きな背中へぴったりと張り付いているらしい。その上両者の脚はもつれあっていて、今の体制では引き抜くことも出来ない。しかし相手はひどく無抵抗で、触れている身体からは少しも力が込もっていないことが感じられる。
もしやすると、人であり、人でないもの。そんな嫌な予感が背中を震わせるが、男は油断する様子を見せず、相手を拘束したまま顔を見れるよう、左腕をひきよせた。
金色の長い髪がさらさらと二の腕を流れ、澄んだ、蒼い二つの眼がこちらを捉えた、ように思えた。その両眼には光が灯っておらず、前を見据えているのか、何処か彼方へ意識を飛ばしているのかはっきりとしない。しかしそれでも、彼がこちらを振り向いたことは腕に伝っていた。確実に、生きている。
「オイ、何か言えよ。熊でもいんのかと思ったじゃねーか」
矢を握り込んだ右手を意味深に、相手の脇腹あたりを泳がせ、低く詰問するように言った。
「うん?」
明らかに殺意を放つ男に対して、相手から飛び出たのは気の抜けた声。男は思わず面食らった。
「なっ………うん、じゃねえよ!なんでさっき黙ってやがった!」
短気らしい男は顔を歪め、食ってかかるよう相手の顔面めがけ怒鳴った。相手はそれでも表情を崩さず、真意は少しも汲み取れない。放心したように数秒、男が二の句を告ごうかと苛立ち始めた頃、ようやく彼の薄い唇がゆっくりと開いた。
「俺に言ってるとは思ってなかった、から?」
彼が真顔で言い放つのを聞くと、男はひくひくと唇の片端を持ち上げた。
「だぁ〜れが、ここにお前以外居るっつーよ、あァ?」
「…分からない、居るかもしれない」
「居ねーぇの!もしそーでもなんか言うとかあるだろうが、メーワクな奴……」
男はなおも不審げに彼の顔をじろじろと睨めつけたが、人形のごとく動きを見せないその表情から感情は読み取れない。しかし殺意はないようだと判断するとついに、がんじがらめにしていた腕や脚をほどいた。そしてさっきまで彼が座っていた場所を陣取るとどかりと座り込み、目の前に投げ出されている彼の足を乱暴な仕草で蹴った。その傲慢な態度にも彼は眉一つ動かさず、のろのろと上体を起こすと男と対面になるように身体を動かした。180センチはあろうかという巨体を丸く折り曲げ、一回り小さな男の顔をぼんやりと覗き込んでいるように見える。背負った矢筒を外し、木の幹に背中を預けた男は視線に気付くと、不機嫌を露わにして、素早く目を逸らした。
「ったく、つーか何でお前、こんなとこに居んだよ…街のやつか?」
三角に立てた膝の片方を規則的に上下に揺らしながら、男はぶつぶつと言った。彼は武器を持っておらず、敵意も持ち合わせていないように思えるが、それでも男は疑り深く、素性を知るまでは解放するつもりはなかった。彼は逃げようとするでもなく、男の言葉を噛みしめるように再び沈黙を作り、少し遅れて口を開けた。
「街…近くに、街があるのか」
その言葉に、男は一瞬言葉を失った。思わず身を乗り出して、彼の背後を力強く指差す。
「…バカか、お前バカか⁈このでっけえ壁は何だと思ってんだよ!」
怒声を浴びながら、彼はくるりと男の指差す先へ頭を巡らせた。数百メートルもない先には、蔦が絡みついた古い白壁が、左右に首を振っても端が見えないほどに続いている。
「あぁ……」
理解したのだろうか、彼はなんとも間の抜けた声を零した。男は怒りを通り越して呆れ、再び、ぐったりと木にもたれかかった。
「おっ前、めちゃくちゃ変な奴だろ……どこから来たんだよ?まさか、その服と頭で旅してきたっつーんじゃねえだろうな」
男は馬鹿にして人差し指を自分の頭の横でくるくると円を描いてみせたが、この男ならやりかねないと、半ば本気でもあった。彼も向き直り、例によって数秒間をおいてからやっと口を開く。
「分からない。が、俺の推測ではどこから来たかというならば、土だ」
男はまた、固まる。口を突けば不可思議なことが飛び出す彼に、思考が追いついていかないようだ。
「…は、ぁ?ふざけてんのか、お前」
「……ふざけてはいない」
イライラと興奮するほどに、調子を狂わされる、と男は大きくため息をつき、落ち着きを取り戻そうとした。しかし彼はそんな男の揺らめきを歯牙にも掛けないで、動じず、ただ言葉を待っていた。
「じゃあ、何だってんだよ。お前推測ってイミ分かって言ってんのか?ありえねえこと言ってどうすんだよ…」
もはやまともな返答を期待している訳ではないが、かと言ってこのまま謎にするのも癪に障る。彼の様子をじっと眺めていると初めて、口に手をあてがうといった悩ましげなポーズをとった。濁った目は相変わらずどことなげに浮かんでいるだけだが、小首をかしげ、「そうだな…」とより長い沈黙を要した。今までは頭で全てまとめてから口にしていたのだろう、そして今度はまとめきれなかったらしい。途切れとぎれ、それまで以上にゆっくりと話し始めた。
「自分が言っていることは、理解しているつもりだ。君が言うように、一般的にありえないことも。だが、しょうがない、今の時点では、そうとしか言えない。気がついたら、あそこに」
そう言って、彼は右斜め前方へ腕を差し出した。男もそれに従い首を伸ばすと、平らに続く緑の果て、目の良い男でも限界まで凝らしてやっと分かるほど先に、小さな人間の群れがあった。
「何してんだありゃ…」
「彼等が、あの一帯の地面を掘っているようだ。…そのすぐ側で目を覚ましたら、いろいろと言っているのを聞いて…身の危険を感じたのだ」
話が見えてくるようなこないような、男は未だ頭にクエスチョンを浮かべ、彼の言葉を理解しようとしていた。
「…それで?何言ってたんだよ」
「遺跡…があるとか言っていた。なんでも、百年前の遺跡が、あの一帯に埋まっているらしい。だから、掘ってる時に俺が出土して、あのまま居たら検査だとか実験だとか、芳しくない物事に巻き込むつもりのようだ」
「はぁ…んで、ここに」
「隙を見て逃げたのだが、彼等はおそらく追ってくるだろう…しかし正直、連れ戻されると困るのだ。なにより、今しがた目覚めた時以前の記憶が少しも無いのがな。だが思うに、こうして話が理解できるのだから、知識はある。この持ち合わせた知識から鑑みるにも、俺は普通の人間と変わりない。つまり一種の記憶喪失だとは思うのだが、確信も手がかりも無くてな、再び彼等の元に戻る以外に、良い方法は無いかと考えて…いても埒が明かなかったから、まぁ時間を潰していただけなのだが」
淡々とそう語る彼の言葉に、男はうつむき、じっと耳を傾けていた。右から左に流してしまいそうになる、にわかには信じがたい話を、馬鹿げているとは思いながらも必死で受け止めようとしている。
「…よし」
しばし考えてから男はパッと頭を上げると、彼の肩を強く叩いた。
「お前の言ってることは全っ然分からん!」
男はあっけらかんと言い放つ。彼は元からか、それとも呆れているのか、そのまま硬直した。だがすぐに、男はニヤリと口角を吊り上げた。
「けどな、一つだけ言えるぜ」
手のひらを広げ自信満々に言う男に、彼は興味を示したようだ。わずかばかりだが、身を乗り出した。
「俺様と一緒に冒険者になればいいっつーこと」
男もまた身を乗り出し、歯を見せて笑みを深めた。だが彼の反応は無い。期待通りの反応が返ってこなかったとみえる男から笑みが消え去ったころ、ようやく首を横に傾げた程度だった。
「あぁ?てめえ、これ以上はねーって提案だぞ」
男は明らかに不機嫌な声を喉奥からひり出し、ガンつけるように更に上体を彼に近づけた。それでも彼は怯む様子もなく、相変わらず安穏とした語調で答える。
「冒険者とやらになって、何をし、何を得るのだ?それが分からん」
「はー、なんだそこかよ……。…おし、いいか?」
男は膝を打ち、腰を上げた。そのまま横方向に木から身体を外すと、城壁とは真逆の、草原の彼方をびしり、と指差した。彼もまた男に合わせ立ち上がり、その指先を追う。
大地にそびえる切り立った崖の隙間を縫うように、狭間から見えるのは、巨大な樹だった。遥か遠くに立っているはずにも関わらずはっきりと見てとれるほどに巨大だが、それもただ大きいだけではなく、輪郭を縁取るように青白く発光している様は、この世を統べているかのような威圧感を放っている。
「見えるだろ?あの木が世界樹って呼ばれてるんだと。んで、あん中に迷宮っつーのがあってよ、更に奥にはそりゃー金銀財宝、名誉なんたらってウワサだぜ。な、いーだろ」
男はそう言って目を細めたが、彼は頷くでも首を振るでもなく、まだ足りない、とでも言うように男を見据えた。
「…では何故、誰も辿り着いていない。そもそも、君はそのために、その冒険者とやらになりたいのか」
「んー、そりゃまあ……な。もちろん、一筋縄じゃ行かねえよ、バケモンみてえな動物がうようよしてるって話だし。だからこーやって人数集めようとして…別に悪い話じゃねーだろ。ここの冒険者ってのは仕事とおんなじよーなもんだしな。お前、金無しツテ無し記憶無し、なら逆に何やるってんだよ。ほら決まった決まった」
一つ二つ三つ、指折りながら言うと男は彼の腕をさっと取り、反応も待たずに歩き出してしまった。強引にも程があるが、男の言葉も真実なら一理ある、と彼は振り払おうともせず、静かに従った。目の前で、高く結われた黒い尻尾が揺れている。
「あ、そういやお前なんてーの、名前」
灰色の城壁に沿って街門にさしかかった時、ふと思い出したように男が尋ねた。お決まりの沈黙が続き、やがて、彼は小さく呟いた。
「あ?なんて、聞こえねーよ」
「……イングワズ、だ」
先ほどからと変わらぬ抑揚のない声ではあるが、どこかしら気落ちしているような、憂いを帯びたものである。男は目ざとく、その変化に気づいていた。
「なんだよ、足に枝でも刺さったか」
「いや…なんでも。それより、君の名を」
彼、イングワズは微かに首を振り、男を促す。男は明らかに話を逸らされたことに多少ムッとしながらも、こいつにも躊躇いだか恥じらいだか、人並みの感情があるのだと心に留め、平静を装った。
「俺様はシノーペだ、忘れんじゃねーぞ」
振り返りもせずにそれだけ言うと、男は以前から何日も通ったとある場所へと、足早に向かった。
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