「んんむぅ……んー…」
リオは一人ベッドの上で唸っていた。肩ほどまで伸びた艶のない黒髪を後ろで小さく束ね、だぶついた寝間着に身を包んであぐらをかいている。左手には18禁の雑誌を開き持ち、股を大きく開いて机に腰掛けている真っ裸のブロンド女を凝視していた。女は挑発的な格好で、なまめかしく股ぐらを濡らしてこちらを見つめ返している。ゆるくカールした長い髪が照明に煌き、ふわふわと首元や豊満な乳房に絡んで色気を醸し出していた。が、リオはそのあられもない姿に少しも心動かされること無く、眉根を寄せて次々にページをめくっていく。艶がかったブルネットやくるくると跳ねた濃いブラウンがところどころ現れるが、どのページもほとんどを肌色が占めていた。皆扇情的な表情で見ている者を誘っている。リオは深く溜息をつき、乱雑に雑誌を閉じた。
「なんだこれ……」
つまらない。下らない。一つもそそるところが無い。これは昨日、職場の軟派な先輩との話で、自分はエロ本なるものを読んだことがないと言うと、自信ありげに貸してくれると約束してくださったのであった。故に心中、かなり期待しながら受け取ったのだがいざ見てみると、なんとも裏切られた気分である。ばったりと横に倒れこみ、馬鹿馬鹿しいと思いながらも空しさは消せないまま、ゆっくりとまどろみに落ちていった。
翌日職場に着くと、例の先輩は既にデスクについていた。短く切りそろえた黒髪と不揃いに生えた口髭を交互に弄りながら、事務の書類に目を通している。部屋に小さく挨拶と会釈をしてドアをくぐり抜けると、こちらに気づき早速声をかけてきた。
「おうおう、オマエどうだったよ?昨日」
ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべながら、立ち上がり肩に手をかけられる。
「良かったろお〜?あれな、最ッ高なんだよ。俺が今まで買ったヤツの中でもさ。だから、いやぁ、オマエ良かったよアレが最初でさあ。まだそういうの知らねえって言った時はマジかよって思ったけどな?いやあ本当よかったよ」
リオの背中を手のひらで軽く叩きながら言う。どうしてこんなに誇らしげなのか。少しばかり不機嫌に思うも、表面上申し訳なさそうに苦笑いした。
「いや、実は全然、使えなくって……」
やや大げさに手を横に振りながら、こっそりと雑誌を取り出し、先輩の胸に押し付ける。
「あざっした」
先輩はぽかんと口を開けて、半ば反射的に押し付けられた本を受け取った。そして訝しげにこちらを見つめたあと、ふはっ、と吹き出す。
「いや、いやいやいや嘘だあ…えっ、なんとも?」
「なんとも」
小さく肩をすくめておどけて見せる。そこへ、話を聞いていたらしい別の先輩が割って入ってくる。
「おっ?お前こいつにお宝、自慢されたのか、不運にも。女に相手にされねえからってさ、な?」
前髪の生え際が少々後退し始め寂しげな頭と、気のよさそうな笑顔。エロ本先輩と同期くらいだが、その意地汚そうな顔とは違い、いくらか愛嬌があった。
「バッ、相手にされねえんじゃねえよ?女は色々めんどくせぇから作らねえんであって、断じて作れない訳では、ない!」
躍起になって否定する先輩に苦笑しながらも二人でなんとかなだめると、次はリオがからかわれる番になった。
「にしても、アレでヌけないってさあ、お前……もしかしてコッチなんじゃねえの?」
ハゲかけた先輩がにやりと笑い、右手の甲を頬に沿わせた。それに合わせて、エロ本の先輩もうんうんと頷いた。リオはその言葉を聞いた途端、なんとも言えぬ不快感が背筋をなぞったのを感じた。それを隠すようにぎこちなく笑みを作り、軽い調子で言う。
「いやぁ、やめてくださいよそんな、違いますからね?ほんと」
どちくしょう、と心の中で毒づいた。たとえ冗談でも、こういう話は神経を逆なでされる。にこにこと表面上だけは繕いながら、職場の上司でなければこの場で殴りかかってるぞクソ野郎、と心の声に付け足した。なおもからかってくる先輩達に自分は同性愛者ではないことだけは強調し、後は適当にあしらって机に向かおうと振り返ったところで、三人目の先輩と目が合った。デスクに向かって座り、首を少しだけこちらにひねっている。まじまじと見つめている訳ではないが、見ていることを隠そうともしていない態度である。先ほどからこちらのやりとりを見ていながらも話に関わってこない先輩を見て、不思議に思うことはなかった。四人の中で一番年長の彼は無口でおとなしく、自ら世間話に混ざってくることなど、リオが覚えている限り一度も無かったからだ。かといって全く無関心という訳ではないらしく、このように他人のやりとりを遠くから眺めていることがままあることも知っている。眠たげに垂れ下がった眼から心中を伺うことは出来ないが、敵意や嫌味を感じることはないため、普段はその存在を意識の外に追いやっていたのだった。
「リオくん」
だから、その呼びかけには驚いた。不意打ち故か、何の根拠もなく冷や汗が背筋を伝った。一瞬身体を強張らせたが、悟られぬように素早く歩き、縦にも横にも大きな体躯を、背を曲げて座っている彼と向き合った。
「今日な、仕事帰りに少し付き合ってくれんか」
その言葉を聞いて、一気に肩の力が抜ける。しかし同時に、意味不明だとも思った。たとえどんな言葉が来たとしても予想外ではあっただろうが、それは更に飛び抜けていた。突然の出来事に深く考える余裕もなく、リオは気の抜けた返事をするので一杯だった。
午後六時、窓から茜色が射し込んでいた。約束通り先輩と共に仕事を終え、二、三言葉を交わすと、ゆっくりと歩き出した。そういえば何処に行くのかはまだ聞いていない。広い背中にぼんやりと視線を漂わせながら、思いを巡らせた。どうして今なのだろう、俺なのだろう…。答えは出なかった。視界の半分程を陣取るその背中には、謎が多すぎる。先輩についてぶ厚いガラス戸を通ると、夏の蒸し暑さが顔を覆った。日が沈みかけているために昼間ほどの暑さは無いが、肌にじっとりまとわりつく嫌な暑さだった。思考力を奪っていく大気の熱に耐えながら、朝の出来事を何となしに思い出しているとある考えに至った。顔から血の気が引いた。
「あ、あのっ」
考えるより前に口が出、思わずうわずる。こんなに普段心の乱れを表に出すことはない。自分でも意外なのか、更に焦ってしまい、頬が紅潮していくのが分かった。少し前を歩いている先輩が、のっそりと上半身で振り返った。緊張しながらもリオは素早く距離を詰め、先輩を見上げる。リオも決して背が低い訳ではないが、先輩には敵わない。背中が夕陽を遮り、リオは丸っきりその陰に隠れてしまう。逆光で表情は黒く、輪郭だけが赤くぼんやりと輝いているのが、妙に不気味だった。
「あのっ、違いますからね?俺…俺、その」
先輩は小さく首を傾げた。何のことか、思い当たるふしがないようだ。
「あ、だから………あの俺、ほっほ、ホモじゃないですからね!」
顔が火のついたように熱くなる。往来で俺は何を言っているのか。弁解を続けたいのか口を忙しなく動かすが、言葉はそれ以上出てこなかった。先輩は、リオの切羽詰まる勢いに一瞬狼狽えたようだったが、すぐに意味を察し、優しく微笑んだ。ように見えた。
「俺もそんなんじゃない。…いいからついてこい」
先輩は自身の発する言葉を確認しながらのようにゆっくりと、しっかりと言い切ると、踵を返し、リオの反応も待たずに再び歩き始めた。リオは腑に落ちないながらも、急いであとを追った。
先輩が足を止めたのは、寂れた建物が建ち並ぶ、薄暗い通りにある建物の前だった。幅はやや狭いが、高さは両隣の建物よりも抜きん出ていた。すすけて汚くなったような灰色の壁がムラなく続いており、しかし上方に目をやると、場違いなほど華美で真新しい看板がかかっていた。鮮やかなピンクででかでかと「ホテル」の文字。騙されたのではないか、という不安がリオの頭をよぎった。先輩は何食わぬ顔で木製扉を軋ませて開き、リオを招くように振り向いた。リオは落ち着かない左胸を撫でさすりながら、店というにはやけに薄暗い店内へと入った。フロントの壁は全面木彫で、実際はただの壁紙であるらしいが、壁にかかった数個とフロントデスクに置かれたランプしか灯りがないこの部屋では、見ただけでは本物と区別がつかない。フロントの向かって右手には壁に沿った上に続く階段がある。これは本物の木らしく、手すりがごつごつと歪な形をしていた。リオは少しだけ物珍しそうにあたりを見回したが、すぐに緊張と不安に身体を硬直させた。フロントにいる顔のよく見えない店員と何やら話をしている先輩の後姿をぼんやりと見つめていた。もし、先輩が変なそぶりを見せたならもう蹴り飛ばして逃げよう、と頭の中で何度もシミュレーションした。話を終えた先輩がこちらをちらと見、フロントの左側へ進んだ。ランプの明かりが届かず、行き止まりに思えた暗闇には、受付の奥に隠されたように下へ続く階段があった。木彫の壁紙は途切れ、冷たい灰色の壁が伸びていた。
「先輩………」
小さな呼びかけは届いていないのか、フロントで受け取った手持ちランプを持った先輩は何も応えず、やや急勾配の階段をゆっくり降りていく。壁と同じ、味気ない灰色の階段に、革靴が当たるたびコツコツと音が鳴った。冷気の漂う階段は、蒸し暑い外に比べて心地よかったが、霊安室へ向かうような気味の悪さも味わった。リオはランプの明かりが届くギリギリの距離を保ちつつ、恐る恐る先輩のあとをついていった。階段はかなり長く、下まで着くと先ほどまでいたフロントと切り離されてしまったような気がした。左手には鈍色の、分厚いらしい鉄扉が立ちふさがり、さらにこの先を完全に隔離していることを示していた。
「…何なんスか、ここ」
扉のノブを回そうとする先輩に、ついに普段は見せない、明らかに不機嫌な顔を向けて言った。眉根に皺を寄せて、呆れたように。先輩はじっとリオを見つめ、口角を上げた。今度ははっきりと、確実に笑っていた。
「ここまできたんだから、見た方が早い」
重い扉を押し開けると、隙間から赤い光が差し込み、少しずつ広がってゆく。同時に、扉の向こうから人のような、獣の雄叫びのような音が、静寂に慣れ始めた耳に入りこんできた。眩しさに目を細めながら先輩に促されるままに足を踏み入れた。続いて先輩も部屋に入ると、扉はきしんだ音を立てながら、再び外の世界を遮断した。
フロントとは打って変わって、部屋全体を無駄なほどに赤く染める色つきのライトに、リオはくらくらと軽い目眩を起こしかけた。壁自体は艶があり、建物全体を包むものと同じ材質のようだったが、表面はごつごつと不規則に凹凸があり、人工的に造られた洞窟、といった印象だった。情熱的な色調のせいか、リオの鼓動は異常なほど早まっていた。夏の外気の暑さとはまた違った熱を部屋中が帯びており、身体の芯から噴き出すように、汗が額に手に滲んだ。そして更に緊張と畏怖を助長しているのが、先ほどから聞こえる音だった。部屋に入り、扉が閉まることでより鮮明に聞こえるそれは、人間のものだと確信する。すぐ側を通り過ぎ、すたすたと奥へ行く先輩の後ろをおぼつかない足取りで追いかける程に、声は徐々に大きくなる。女の叫び声であると思われるそれは、途切れ途切れに短く、長く、不規則に聞こえた。心臓の脈動を感じながら更に前へ進むと、右手に大きなガラス張りの部屋があらわれた。前に立つと腰の辺りから頭上二メートルほどまである一枚のガラスを隔てて、小さな四角い部屋があった。ガラス張り以外はこちら側と同じく、洞窟のような壁に囲まれており、ガラスと対面の壁にドアが見えた。その扉以外からは出入りが出来ないらしく、まるで動物園のガラス檻のように思えた。中には男女が一人ずつ、男の方は首から下を隙間なく黒いレザーで身を包み、顔には濃紫の派手な仮面をつけ、鞭を手に立っている。女の方は局部に最低限の面積しかない下着を身につけているだけであり、両手は壁から伸びた二本の鎖にそれぞれ繋げられている。両膝をすべらかな床について、腕は鎖に引っ張られ大きく開いている。その間では、なんの隔たりもなく豊満な乳房が並んでいた。見せつけるかのごとく身体をこちらに向け、後ろに立つ男が鞭を振るう度、乾いた音とかん高い悲鳴が響いた。
リオは無意識のうち口に手をあて、荒い息を閉じ込めようとしていた。胸からこみ上げる感情が、嫌悪なのか好意なのか、はたまた見慣れぬものに対する単なる好奇なのか、自身で判別することが出来ないでいた。そしてそれを確かめるように、眼を大きく見開き、目の前の光景に見入った。鞭がしなる度に女は激しく仰け反り、赤いライトを受けてキラキラと光る金髪が跳ね、豊かな胸をその隙間で揺らしている。美人とカテゴリされるであろう類の顔を淫猥に歪め、喉奥から嬌声やら悲鳴やらを絞り出す。湿った吐息を混じらせながら時には長く、時には短く。
「…どうだ?」
その声で我にかえる。夢から覚めたばかりのふわふわとした心地で、先輩の方へ顔を向けた。
「あれな、嘘なんだぞ」
面白そうに目を細め、ガラスの中の人間を指差しながら言った。は?と、リオは首を傾げた。あれって何だ。しかも唐突に。こいつは人に言葉を伝える気があるのか?
猫を被る気を完全になくしたリオは睨むような目つきでちらちらと落ち着かなげに、ガラスの向こうと先輩の顔とを交互に見ていた。
「本当は痛くないらしい。どっちもプロだから、怪我なんてしない。だけど、ホンモノみたいだろう?」
あぁ、はあ…と呑気な返事をしながらも、リオの意識は先輩の言葉と女の悲鳴の間に浮いていた。先輩は、身体はリオの方に向けながらも、横目でガラスの中の女を見ている。
「これがここの見世物なんだ。女はちっとも痛くなんかないらしいが、中々イイだろう」
言い終わると同時に先輩に視線を向けると、彼もまたこちらを見ていた。目が合ったのを確認して、先輩はニヤリと笑った。元々細い目が一層細くなり、白い歯が少しだけのぞいた。職場では一度たりとも見せたことがない表情だった。リオはなんと返していいのか分からず、思わず目を伏せ、視線をそらした。女の叫び声を聞く度に身体の芯から熱が沸き上がり、下半身に神経が集中する。この初めての感覚が性的な興奮であることは自覚していたが、それを素直にさらけ出すのは、変態とみなされると思って恥ずかしかった。ゆえにリオは先輩の問いには答えず、少し落ち着いた頭に湧きあがった、純全たる疑問を口にした。
「あの…なんで俺を、連れてきたんですか。……こんなトコに」
しかし、やはり気恥ずかしさは消せないのか、最後に嫌味のような一言を付け足してしまう。すぐに後悔し、気づかれないようにと祈りながら、ちらりと上目遣いに先輩の顔色を見た。相手は気を悪くした風でもなく、再びショーケースの中に目をやっていた。
「俺も、前に知り合いから、ここを教えてもらったんだ。こういうシュミなんだっつって、初めて知った。……だから、お前もな、もしかしたらって、朝…」
最後まで言い切りはしなかったが、言わんとしていることは明らかだった。
「だからって、はは……オ、俺が、違うかったら先輩、ただの変態になりますよ…」
自分でも不思議なほどに、思っているそのままを口に出すことができないでいる。嫌味な冗談か、自嘲かのように唇を引きつらせて笑った。こんなにも不器用だったか、と状況を客観視している自分が心で呟いた。
「…ん、別に構わん。それより、お前も同じだったらな、面白いだろ。…って、思った」
普段よりも饒舌な喋りと終始緩んでいる口もとから、今までずっと仲間が欲しかったのだろう、ということが見てとれた。先輩の意外な一面を目の当たりにしてリオは驚くと同時に、感謝の念を抱いた。人生で、最高の悦びを見つけた気がした。
会話の後、再びショーケースの女に目をやった。目を細め、ぼんやりと滲む女の顔を見ながら、部屋全体を包む喘ぎ声に聞き入る。今までずっと自分の内に籠められていた、快楽への扉をこの淫靡な音でこじ開けようとしていた。
だから、そろそろ帰るか、という先輩の言葉にやや不満を覚えたが、素直に従って部屋を出た。背後で扉が閉まり、先ほどまで五感を支配していた赤い光が、かん高い音が、雰囲気が、完全に遮断される。突然の静寂に慣れない耳の中で、蚊の鳴くようなか細い音が響いていた。来た時と同じように、先輩の後に続き薄暗い階段を昇る。無駄に距離を置く必要がなくなり、リオは先輩の持つランプに照らされた階段を何となしに眺めながら、一歩ずつ足を上げていった。フロントに戻ると先輩はズボンのポケットからいくらかのコインを取り出し、ランプと一緒に受付に手渡した。
「ここは、時間制だから。こうやって、後から払う。大体十分で、二十円くらい」
支払いを終えて木製のドアをゆっくりと開けながら、先輩はリオにそう言った。外はすっかり暗くなり、冷えた夜風が肌を撫ぜる。リオはよそ行きの作り笑顔を浮かべ、ありがとうございました、と小さくお辞儀をすると、逃げるようにしてその場を去った。早足で家路を急ぐリオの耳には、あの女の声がずっとこだましていた。
その後、仕事場での先輩との接し方は特別変わりはしなかった。事務的な内容以外の話をすることも、あの日見せた笑顔も、全くの嘘であったかのようだった。しかし、リオは足繁く例の店へ通った。仕事の帰りや休日に、数十分ほどだけ居座る。ガラスの中の男女や見世物は日毎に変わっていた。ロウソク責めや吊るし責めなどSMプレイの基本的なものばかりで、必ず男が女をいたぶる形だった。プレイ自体は淡々としており、魅せ方は変わらない。先輩が言っていた「嘘」の為であると思える。そして、ショーの唯一のウリが「女の顔と声」に限っていることも伺えた。綺麗な女に傷をつけることなく、しかしアブノーマルな性癖の男達を充足させることで、見世物は成立しているのだ。ここに足を運ぶことはあの日から日課のようになっていたが、リオは満足を覚えたわけではなかった。部屋に入れば必ず客の誰かがいた。店に通うようになってから何度も目にした人間もいたが、それでも全くの他人である。彼らがリオを気にしているかいないかは分からないが、彼はとてもそのような状況で理性を脱ぎ捨てることができるような人間ではない。皆がいくら自分と同じ性癖を持った人間であっても、人目のあるところで欲を曝け出すことは、彼のプライドが許さなかった。特に、頭のおかしそうな男がガラスの目の前で上半身を丸めて立ち、うっうっと呻いている姿を見たときには見世物どころではなく、吐き気を催しすぐに退散したこともあった。プライド高い男は、半端に沸き立つ興奮を身体の奥に溜め込んでいくことしか許されなかった。
他人に見られることがない、女と二人きりになれる、直接手を下せる…。
性欲からくるリオの望みは、だんだんと矛先が変わっていった。
ある休みの日、例のごとく店に赴いた。勿論他に人が居ないなどということはなく、リオは僅かながらの期待をストレスに変えて、仕方なく店を出た。未だ昼前で、太陽光がじりじりと地面を灼いている。建物の陰になっているとはいうものの、蒸し暑い空気に息が詰まりそうになる。ふらふらと日陰を求めるように、薄暗い路地を歩いて帰るつもりだった。しかし運が悪かったのか、曲がる度に道が狭くなってゆく。縦横に様々な太さの管が張り巡らされた場所に出た時は、もう引き返そうかと逡巡した。既に身体を横にしていないと通れないような幅である。狭く、埃っぽい壁に挟まれた格好で、リオは躊躇った。しかしこのまま引き返すことを考えると、何故か無性に悔しさがこみ上げる。暑さで判断力が鈍った、単に同じ道を取って返す手間が面倒だった、という思いもあったかもしれない。とにかくリオはその細い、道と言うにも怪しい路地を強行突破しようと決心した。靴まで隠してしまいそうな長い丈の濃い色のジーンズと、手首までしっかり覆う薄手の黒い長袖。そしてその上に着ている、白いはずである半袖のポロシャツを灰色や黒色にまみれさせながら、汚い路地の壁に擦り付けるように進んだ。彼は、たとえ夏でも肌を露出させることを極端に嫌う人間だった。全身から汗を零れさせ、今まさに目の前にある膝ほどの高さの管を乗り越えようと足を上げた時だった。目の前の壁一枚を隔てた奥から、突然怒声が聞こえた。思わず足が止まる。緊張で騒がしく鳴る胸を深呼吸で落ち着けながら、そっと壁の向こうの音に耳を澄ませた。中年男のものと思われる、ドスのきいた低い声が罵り声をあげている。客を馬鹿にしてんのか。ふざけんなよこのクソアマ。淫売のくせに。仕事をしろ。その後も言葉を変えながら、同じような内容を繰り返し喚き続けていた。同時に、壁を殴るようなこもった音も断続的に聞こえた。リオは夢中になって、どんな小さな音をも必死で拾おうと壁に耳を押し付けた。すると、男の怒声や壁を殴る音に混じってごめんなさい、ごめんなさいと謝る女の声がかすかに聞きとれた。リオはまっすぐな黒髪で垂れ目の、気の弱い大人しそうな女を想像した。シーツ一枚だけで身を包み、ささくれた木の床にうずくまって男の怒りに耐えている。男が怒っているのは、女がほとんど喋らなかったからだろうか。まだ慣れない仕事で気恥ずかしく、客の望む淫らな女を演じることができないでいるのか。何の根拠も無い勝手なストーリーを頭に繰り広げ、リオは鼻息を荒くした。最後は男が一際大きな声で、もういい。と怒鳴った。荒々しくドアを開けるのが聞こえ、男の気配が消える。嵐が過ぎ去ったように、壁の向こうは静まり返った。女はまだそこにいるのか、男の足音と共にどこかへ移動したのかは分からなかった。そこでようやく壁から耳を離した。興奮と困惑が入り混じり、息が荒くなっている。緩慢な動作で頭の角度を変え、汗で濡れた額をねずみ色の汚い壁にもたせかけた。自然と頭はうなだれ、湿った茶色い地面と、自身の下半身が目に入った。
リオは生唾を飲み込んだ。硬く巨大化した男根が、ぶ厚いジーンズ生地を限界まで引っ張っている。完全に勃起していた。ペニスに流れ込む血液がドクドクと脈打ち、股間を激しく疼かせている。初めての感覚に、当然困惑した。背中を丸めたい衝動に駆られたが、わずかな壁と壁の隙間ではかがむことは勿論、身をよじることすら出来ない。加えて勃起したペニスは、尻を出来る限り後ろに引いても目の前の壁スレスレまで届いているため、無闇に横移動することも叶わなかった。リオは大人しくその場でベルトを抜き、ジーンズを少しだけずり下げた。覆うものがトランクス一枚だけになったペニスは勢いよく突き出し、力強く上向きにそそり立った。リオは恥ずかしいやら情けないやらで内心泣きそうになりながら、仕方なくパンツのひっかかりを外し、ペニスを露わにした。壁につかないように左手で根元を掴み、地面と垂直になるほどに角度を上げる。尿道を突き刺すような鋭い悦楽感がペニスを襲い、外気がまとわりついて脳は甘い痺れを感じた。膝がかたかたと震え出したため、右手を背面の壁につき、背中を支えながらゆっくりと膝を前方の壁に突っ張らせるように曲げた。角度の甘い空気椅子をするような体勢だったが、心理的には大分余裕ができた。安堵のため息を漏らし、リオはそっと目を閉じた。明るい闇が広がり、現実から遠のくように意識を空想の世界へ沈めた。
黒髪の女は相変わらず、床に小さくうずくまって震えている。長く細い髪は床につくほどで、肩やシーツにも不規則に流れ、女が揺れ動くたびにさらさらと零れ落ちた。透き通るような肌に浮かぶ真黒な二つの眼は恐怖に見開き、目の前に立つ男の顔をじっと捉えている。見つめているというよりは、目を離すことが恐ろしくて出来ないようだった。数々の罵声を浴びながら、男が壁を叩いたり床を踏み鳴らす度に一際激しく肩を跳ねさせた。大きく丸い瞳からぽろぽろと涙を零し、震える声でごめんなさい、ごめんなさいとうわごとのように繰り返している。「ごめんなさいだと?俺は金を払ってんだぞ、そんな言葉で許されるとでも思ってんじゃねぇだろうなあ…」男は先ほどまでとは打って変わった、静かに、しかしはっきりと怒気を含んだ声で言った。女は忙しく動かしていた赤く小さな口をぴたりと止め、しかしもう一度だけ、消え入りそうな声で、ごめんなさいと呟いた。「ったくよお、この店はいつからお前みたいな女を使うようになったんだ、え?何の役にも立ちゃあしねえ、客の要望に応えようともせずにごめんなさい?」男は顔を歪ませて、ふざけてんじゃねえぞ、と大声をあげ、女の腹部に鋭く蹴りを入れた。女はぎゃっと叫び、後方に倒れこんだ。ベッドの枠組みに頭を打ちつけ、木とぶつかる鈍い音がした。そのまま床に転がると、腹を抱えて苦しげに呻いた。男は続けざまに女の脇腹を踏みつける。痛い、と女は涎を垂らして泣いた。嫌あ、やめて、助けて。男が暴力を振るう度に声をあげ、最後は言葉にならない叫びを、圧迫された腹から吐き出すだけになっていた。男はシーツを通して執拗に女の脇腹をにじり、同じ箇所を硬い革靴を履いた爪先でぐりぐりとえぐった。シーツに赤い染みが広がり始めると、女は絶叫しながら何度も腹をよじった。助けて、助けてと喘ぎ、焦点の合わない目で肩越しに男に懇願している。やだね、と吐き捨て、更にみぞおちや背中にも攻撃を続けた。既に怒りの意思は消えている。痛みにもがく女は醜く、けれども美しく、涙にむせび助けを求める姿は嗜虐心を煽った。かん高い叫び声は、ショーケースに繋がれた女の声と同じく、耳から性器をまさぐっているような、この上ない快感を与えた。女は黒髪を床に広げ、涙と鼻水と涎と汗で顔じゅうを濡らしていた。シーツははだけ、白くて丸い肩と、すべすべとした太もも、そして赤黒い染みがいびつな円を描いている近くに、二の腕で圧迫された柔らかな乳房が露出していた。その先端にはピンクがかった小さな突起が、ぷっくりと膨らんだ根元にくっついている。こいつも興奮していたのか、とんだ変態だな、と口もとが歪む。濁った二つの黒目がこちらを見つめ、赤く小さな唇の隙間からは絶えることなく、かすかな呻き声が漏れ出していた。
ハア、ハアと荒い呼吸が聞こえた。一瞬、身体中に激しい電撃が走ったかと思うと、心地良い浮遊感が身を包み全身から力が抜けた。痛みにも似た快感に思わず目を見開くと、目の前に転がっていた女はかき消えた。今視界にあるのは、木製の床ではなく、灰色の固く冷たいだけの壁だった。その薄汚い壁には白く濁った液体が点々と付着しており、妄想の最中に射精したことを物語っていた。リオは己の精液を見つめながらしばらく放心した後、ひどい疲労感に襲われ、ぐったりと壁に背中を預けた。水浴びでもした後かのように汗だくで、額や頬に、髪と埃がべっとりとへばりついている。息を整え、頭にかかっていた靄が晴れてくると、自分のしていた行為がよみがえり、訳の分からない罪悪感が頭を支配した。理由は無いが、なんとなく、後悔するような、泣きたくなるような、とにかく後味の悪い思いが胸に詰まった。整理のつかない感情に意味を求めながら、左手に収まっている、萎えた陰茎の先についた精液を、トランクスの端でそっと拭い、パンツとズボンを丁寧に履き直した。それでも頭はまだ通常の思考力を取り戻せない。ぼんやりとその場に突っ立っていると、湿った生温かい空気が鼻腔を突いた。ふと、これに自分の精液の臭いがまじっていると思うと、軽い吐き気がこみあげ、そそくさと、もと来た方へ移動した。当初の目的は忘れ、とにかくこの場から離れたい一心であった。広い方へ広い方へと道を選び、重い脚をひきずるように歩き続けた。やっとのことで大通りへ出、全身が明るみに照らされると、服も、わずか露出している肌も、埃だらけで灰色になっている。リオは眉根に皺を寄せてぶつぶつと文句を言いながら、神経質に埃をはらった。そして大通りを歩きながら、建ち並ぶビルの中にあるはずの、先ほどの娼館を探した。男の怒声や女の詫び声が夢でないことを確認したかった。ついさっき初めての意識的な射精を終えて、しばらくは倦怠感に苛まれていたのが、今は逆にすっきりと清々しい気分だった。路地裏に入る前よりも軽い足どりで歩いていると、存外簡単にそれとおぼしき建物が見えた。路地の壁とと同じ簡素な灰色で外壁が固められ、入り口までは四、五段の階段が続いている。華美さは無いが、木枠にガラス張りの扉にかかっている看板にある文字が、娼館であることを示していた。ガラス越しに人がいることは確認できない。入口から放たれる、近づき難い雰囲気に入るかどうか一瞬躊躇われたが、あの黒髪の女がいるに違いない、と思うと足が自然に動いた。
からん、と鈴の音を静かな部屋に響かせ、中に踏み入った。オレンジ色の照明が全体をあたたかく照らす空間は清潔感があり上品で、娼館といえども高級な雰囲気を醸し出している。入ってすぐ右手に小さなカウンターがあり、バーテンの格好をした若い男がいらっしゃいませ、とうやうやしくお辞儀をした。髪を後ろに流し、制服をきっちりと着こなしている男は小柄で温和な顔つきだが、右頬にある縦に長く切れた古傷と、両瞳に宿る鈍く妖しい光が、カタギではないであろうことを想像させた。お客様、ご来店は初めてでしょうか?優しく微笑み、リオに尋ねる。リオは無言で頷き、カウンターの前に立った。
「うちは、会員制になっております」
男はカウンターの下から一枚の用紙を取り出し、ペンを添えてリオの前に差し出した。
「こちらにお名前と、連絡先をお願いいたします。それから、初めての御利用ですので、料金は五百エン上増しになりますが、よろしいでしょうか」
リオはふんふんと説明を聞きながら、素早く用紙に記入した。記入し終えたのを見て、男はリオから用紙を回収した。
「ありがとうございます。では次回からは、こちらのカードをお持ちになってください。…して、本日はどのようなコが、お望みでしょうか?」
にこにこと薄っぺらい笑顔を崩さずに、男はてきぱきと話を進める。こんな、いつ他に客が入ってくるか知れないようなこんな場所で聞くのか、と多少不快を感じつつも、小さな声で「黒髪の…」と語尾を濁して言った。
「そうですねえ、黒髪と言いましたら、当店には長髪の若い娘しかおりませんが、それでよろしいでしょうか」
リオが頷くと、男は入り口の正面右奥に続く廊下を手で示した。突き当たりには木製の扉が見え、廊下は更に右へと続いていた。
「二番の部屋でお待ちください。すぐに手配いたしますので」
リオは、弐と書かれたプレートがついた小さな鍵を受け取り、指示されるままに奥へと歩いていった。フロントから見える部屋番号は六だった。右手には五、四と順に、壱まで続いている。そしてその突き当たりと、壱から参の部屋の対面にはそれぞれ「関係者以外立入禁止」のプレートがかかっている四つの部屋が並んでいる。リオは弐と書かれた部屋の前に立ち、ドアノブに触れた。奥の、壱の部屋から女の嬌声がわずかに聞こえたが、部屋に入ると全く音は無くなった。中は簡素で、薄桃色の壁に囲まれた、窓もないこじんまりとした正方形の部屋だった。左奥の隅にやや大きめのシングルベッドとタオルが、そして反対にはビニール布で仕切られただけの簡易シャワールームが設置されていた。掃除は行き届いており、妙な湿気や不快感は生じない。リオはとりあえず顔だけを洗い、白いシーツと掛け布団が敷かれたベッドに腰を沈めた。一段落、深いため息をついた。ややあって、ドアノブを回す音が聞こえ、リオは再び身を強張らせた。ゆっくりとドアが開き、一人の女が入ってくる。黒髪で長髪、そこに嘘はない。しかし、リオのイメージとはあまりにもかけ離れていた。質量の多くウェーブがかった黒髪は、光が当たると青みを増し、深海を思わせる煌めきがあった。やや褐色の肌には黒々とした瞳が乗っており、眉は太く、目尻と共にきりりとつり上がって、はっきりとした顔立ちを強調させていた。これはこれで独特の美しさがあり、好みでないという訳ではなかったが、あれほど強く思い描いていただけに、リオは内心舌打ちをした。しかし「はじめまして、お願いします」と口から零れる柔らかな声色は、路地裏で聞いた声そのものであった。気弱で腰の低い口調や態度にあの妄想が思い出され、急に心拍数が跳ね上がる。
「あの……わ、わたし、どうすればいいでしょうか…」
真白な肩出しのワンピースの裾を恥ずかしそうに弄りながら、女はおずおずと尋ねた。リオは何も言わず、手に持っていた部屋の鍵を女の足元に投げ渡した。女は吃驚して一歩後ずさったが、それが鍵だと分かると、得心いったように拾い上げ、丁寧な所作でノブに差し入れ、鍵をかけた。女がベッドの前まで来てリオは鍵を受け取ると、腰を横にずらしながら、とりあえず座れば、と下心を覗かれないようにそっけなく言った。すみません、女は言いながら、リオの右隣にちょこんと腰掛けた。しかしこちらの方へは目を向けず、他人を拒むように肩をすくめて、身体をがちがちに強張らせている。
「アンタ、そんなんでさあ、怒られたりしねえの?娼婦のクセに」
リオは首を突き出して、くるくると跳ねた黒髪が、幾筋も頬の上で渦巻いている女の顔を覗き込んだ。先ほどの男とのやりとりで傷ついているであろう彼女の心を抉る、サディスティックな冗談のつもりが半分、そしてもう半分は、純粋な疑問だった。娼館というものに足を運ぶのは初めてだったから、そうでないだろうとは思いつつ、本当はどの娘も彼女の様に、あからさまに緊張をしているものなのかもしれない、と思ったのだ。女は眉を八の字に曲げながら、黒目がちの瞳だけをぎょろりとリオに向け、探るように見つめた。やがて、今にも泣き出しそうな震える声で、ぽつりぽつりと語り出した。ーわたし、こういうことにまだ全然、慣れてなくて。ついこの間なんです、入ったの。でも、入ろうと思った訳じゃないんです、お金がなくて、それで声をかけられたから断れなくって。って、あ、こんなこと、お客さんに言っちゃ、ダメですよね。ごめんなさい、わたし、やっぱり向いてなくって。仕事だって割り切ろうとしても、恥ずかしくて、怖くて、どうすればいいか分からなくって。あ、ごめんなさい、また、どうしてだろう。うう、本当にごめんなさい、さっきもわたし、怒られたばかりなのに。でも、辞めるにも辞めれないんですよね、いつも、お客さんを怒らせたり、物が壊れたりすると、損害賠償だって、このお店に借りてる、ってことになるんです。だから、それを返せてもないのに、辞めるだなんて、とても無理で。元から、気が弱いのもあるんですけど、本当に無理で。あ、また、ごめんなさい。こんな話して、本当にすみません。
ふーん。リオの反応はまあ、そんなものであった。
「じゃ、嫌なわけだ。ここにいんのも」
顔を覗き込んだまま、感情を込めずに言い放つと、女は申し訳なさそうに睫毛を降ろした。否定も、肯定もなかった。
「…あんさぁ、セックスっていうか、本番はいいからさ、身体触らせてくんない」
沈黙に堪えきれず、といった風にリオは続けた。え、と女は弾かれたように顔をあげた。そこで初めて、リオと視線が絡み合った。いいんですか、と遠慮がちに確認する。
「んん、その代わり、ンな緊張しねえでくれよ」
甘いマスクを被り、柔和な笑みを浮かべながら、女の細い腰に腕を回した。一瞬、女はびくりと身体を震わせたが、直ぐに、全身から余計な力を抜き、リオに寄り添った。古びて柔らかくなったジーンズを通して、腿に女のしなやかな指と、手のひらを感じた。
「ありがとうございます…お客さん、やっぱり、お優しいんですね」
救われたように、にっこりと微笑みながら言う。リオは、ハハ、と思わず声を出して笑った。
「良いこと言うじゃん、アンタ」
女の長い首筋に口付けながら、ゆっくりと押し倒す。どこに触れても柔らかな肢体に指を這わせ、女の官能を誘う。固く閉じた両腿の隙間をワンピースの上からなぞると、くすぐったそうに身をよじった。胸を上下させて短く息を吐き出す唇に、己の唇を重ねる頃には、首に女の両腕が絡み、完全に身を委ねられたように思えた。女というものは、案外ちょろいものだな。恥部の割れ目にそっと中指をあてがいながら、リオは感じた。薄いショーツが、じわじわと湿り気を帯びていく。
「なあ、さっきの話、嘘なわけ?…どこが嫌なんだよ、おい」
応えはなかった。女は額に汗を滲ませ、声を押し殺してリオの首元にすがりついていた。リオは女を抱きながら、下に敷かれている布団を器用に手繰り、二人をすっぽりと覆うように被った。女の息遣いが近く、生温かい湿った空気が首にまとわりつく。女がどうして、と蚊の鳴くような声で呟くのが聞こえた。リオはワンピースの中に手を滑り込ませ、大きく柔らかな乳房を揉みしだきながら、女の耳元で囁いた。
「声、聞かせろよ。これなら叫んでも、廊下にゃ聞こえねえからさあ…」
耳をつんざく、鋭い悲鳴が鼓膜を震わせた。表情は暗くて見えないが、苦痛に歪んでいるのだろう。リオは乳房を掴んでいた左手に、更に力を込めた。生温かい液体が、指先を浸す。悲鳴が先ほどよりも力強く、必死に聞こえた。指と爪の間に、じんわりと液体が染み入った。痛い、と女は喚きながら、腕を振り回す。爪を立てた指先が、頬をかすめ、肩に食い込む。リオは高らかに笑い声を上げながら、女の腹に馬乗りになった。
「誰が優しいって、ええ?もっぺん言えるか?今、言ってみろよ、ほら!」
もがく女の顔面を狙い、血に塗れた拳で力いっぱい殴りつけた。どこに当たったかは分からないが、まもなく悲鳴が、ごぼごぼと水の混じる音になった。布団中に、鉄の匂いが充満する。女はぐったりと動くのを止め、絶えずうがいのような音を口から発していた。興奮で鼻息を荒くしながら、再び逃げようともがき始めた女の身体を更に拘束する。女の二の腕を肘先で抑え、あらん限りの力で圧迫する。下は柔らかいベッドながら、女の腕は早々に軋む音を立て始めた。女は低くうなりながら、ちぎれんばかりに首を左右に振っている。口だか鼻だかに溜まった血液がそこらじゅうに飛び散り、リオは下半身が硬くなるのを感じた。同じ体勢のまま、今度は前髪の生え際を荒々しく掴む。顔が上がらないように引っ張りながら、顔が横向きになるように捻じ曲げた。痛い、やめて、助けて、と血を吐きながら、女は懇願した。
「はははは、こんなになってまで、まだ助かりてえの?面白ェな、やっぱイイよ、アンタ」
女の頬を舐めとれるほどの至近距離に顔を近づけ、小さく、殺してやるよ、と囁いた。血の臭いと、蒸発する汗や涙の熱量が、より直に感じられた。女は痙攣したようにびくびくと身体をくねらせながら、すすり泣いている。が、すすり泣くといっても、とめどなく溢れる血液のせいでしゃくりあげる度に喉につまり、嗚咽を漏らしながらになっていた。リオは興奮しきり、体内で爆発しそうな熱をぶつけるように、腰をあげ、女のみぞおちに膝をめりこませた。ぎゅる、と胃液が逆流する音が聞こえ、布団の中に湿った叫び声と、酸の臭いが立ちこめた。女はえずいたり、咳き込んだりする度に苦しげに呻き、子供のように泣きじゃくっている。リオは下半身に右手を伸ばし、ぎこちない動きでベルトを抜き、ズボンを膝まで下ろす。酸素が欠乏しているのか、頭の中がぐるぐると渦巻き、鼻の奥がじんじんと熱かった。パンツ一枚だけに包まれた下半身を女の股間に押し付け、上半身も圧迫させるように密着させる。波打つ胸の動きが小さくなり、女はひゅうひゅうと音を立てながら必死に呼吸した。顔を向かい合わせ、血と吐瀉物の臭いを間近に感じながら、「どうやって死にたい」リオは低く言った。ごふごふと湿った咳を立て、女は小さく首を振った。喋れないのか、と髪を掴む手の力を緩めてやると、女は顔をそむけ、もう一度血を吐き出した。濁音混じりの汚い声で「死にたくない」と答えた。リオは一瞬あっけにとられ、そしてまた、口を大きく歪めてけたけたと笑った。
「良いこと言うね」
髪を掴みなおし、上体を起こして再び腹の上にまたがると、もう一方の手でそっと、女の唇をなぞった。
「…でも、ンなこと聞いてねえだろ、ん?」
柔らかく、ぬめった感触のそれを確かめると、精一杯の力を込めて、拳を叩きつけた。硬いものが砕ける、鈍い音がした。続けて、左眼のあたりを二発。硬い感触の後に、ぬるり、ぐにゃりと人差し指の第二関節が埋まる。声にならない悲鳴が、赤い泡となって口の端にごぼごぼ、ごぼごぼと溢れている。鼻の奥に、生温かく鉄くさい感覚が充満した。
「ふざけた事言いやがるからだよ、クソ女!」
叫ぶと同時に、脳天を貫かれるような、鋭い絶頂を感じた。二度、三度、反射的に腰が揺れ、パンツの中に放出する。快感に変わった身体中の熱が空中に霧散し、激しい衝動にだんだんとフィルターがかかってゆくような、酸素不足ともあいまって、気を失いそうになる。もそもそと布団から這い出、部屋の空気を肺に入れる。夏とはいえ、布団の中とは圧倒的に温度が違う。寒いとすら思うような外気と、ちかちかと眩い照明が、先ほどの出来事と同じ世界だとは思い難い。しかし隣には、あちこちが赤黒く染まった布団と、そこから床に力なく投げ出されている二本の脚が見える。剥き出しになったショーツはたっぷりと水分を含み、下のシーツをも灰色に染めていた。
リオは息を落ち着かせてから、女の上半身を覆う布団を引き剥がした。見るも無残な、同じ人間とは思えないものが目に飛び込む。片側の眼玉はひしゃげ、窪んだ眼孔からは血が混じった透明な液体が流れ出ている。口は前歯がほとんど欠けて、小さな赤い海に沈んでいる。そして、身体。白かったワンピースも血がこびりつき、右胸のあたりは特に酷い。まくられた服から覗くすべらかな腹には、青紫の大きな痣が痛々しくつけられている。女はぴくりとも動かないが、ずず、ずず、と血で詰まった鼻で僅かに呼吸していた。リオはゆっくりとベッドに上り、外したベルトを片手に、女を後ろから抱きすくめるように上体を起こさせた。軋み固まった女の髪に滴る血を見て、初めて自分が鼻血を垂らしていることに気づいたが、拭いもせず、女の首にベルトを絡めた。粘ついた大量の血液が口から零れ、女は目を覚ました。痛みに低くうなるも、今の状況を理解してはいないらしい。首にほど近いベルトを両手に持ち、ありったけの力で外側に引っ張る。ぐぶぇ、と女の喉から奇怪な音が漏れた。ヒビが入っているであろう両腕や脚でじたばたともがく。息を止めるには、思った以上に力が要るようだ。リオはふらつきながらも踏ん張り、仁王立ちになる。ベルトをできる限り持ち上げ、女の背中を蹴った。ぶじゅると何かが漏れ出す。ベルトが首と擦れ、ごきりと骨が折れる。ずっしりと重力に従う重みに、思わず手を離した。ごとりとベッドの木枠に頭がぶつかり、不自然に上体がねじれる形で床に横たわった。赤黒く膨らんだ横顔が、髪に隠れながらもはっきりと見えていた。リオは深いため息をつき、赤黒いベッドから飛び降りた。限界まで汗を吸った服を脱ぎ、シャワーを浴びる。汗だか血だか涙だか鼻水だか精液だかをまとめて洗い流す。やっと一息つくと、急激に疲労感と眠気に襲われる。しかしまだ寝ることはできないと自分を奮い立たせ、「後片付け」にとりかかる。頭にタオルをかけたまま、ベルトを外した死体を布団とシーツでくるみ、シャワー室のカーテンで隠すように押し込んだ。血に塗れたポロシャツも一緒にまとめ、パンツ、ズボンと黒いシャツだけを身につけ、何食わぬ顔で部屋を出た。入った時と同じ男が、お疲れ様でした、と例の薄ら笑いを浮かべ、声をかけてきた。あれ、白い服着ていませんでしたか。いや、そんなはずねえけど。
そうですか、と男は不思議そうに首を傾げた。会計を終えて、男は再び、すみません、やっぱり見てきますね、お忘れ物でしたら大変ですから。と紳士な態度を崩さず、小走りに奥へと消えた。
「余計なことしやがって」
リオは舌打ちしながら、さっさと店を出た。後ろからいかつい人間が尾けていないかを時たま確認しながら、住んでいるアパートに着くなり倒れこんだ。
気を失ったように眠りこけ、気がつくとあたりが暗くなっていた。寝ぼけまなこをこすっていると、昼間のことが思い出される。面倒なことにはなるだろうと、なんとなく用紙の連絡先には勤め先のものを記したのだが、いつここに来るともしれない。
「めんどくせえな…」
黒く軋んだ髪を掻きながら、呟いた。のっそりと起き上がり、クローゼットに入っている冬服を取り出した。彩度の低い赤と灰を基調にした、厚手のもので気に入っているのだが、かつて知り合いにダサい、と切り捨てられたためにしまいぱなしになっていた服だった。ハンガーからおろし暫く眺めた後、覚悟を決めたように袖を通した。そこで、玄関のドアをノックする音に気がついた。どきりとして、息を殺す。
「リオくん、いるか、開けてくれ」
先輩の声だった。リオはとりあえずほっとして、ドアに近づいた。
「先輩、一人ですか?」
ドア越しに、用心深く尋ねる。相手も、自分も、ドアの向こうは見えない。さっきの連中や、先輩以外の職場の人間でも、待ち構えられていると面倒だった。
「いや、俺だけだ。事務所に来いって、呼んでこいって言われたんだ」
息を切らして、早口に言っている。場違いではあるが、リオは思わず心の中で笑った。
「ちょっと待っててください、いや、事務所には行きませんけど」
どういうことだ、何をしたんだ、となおもノックしながら尋ねる先輩を無視し、リオは部屋の中へ戻った。特に趣味や使うこともなく、貯まっていくだけになっていた数年分の仕事の給料が引き出しに眠っていた。それだけを手持ちの袋に掴み入れ、再び玄関へと小走りに向かう。鍵を外し、ドアを開けると、例の巨体が立ち塞がっていた。肩で息をしながら、リオを怪訝な顔で見つめている。
「…先輩、俺は居なかったって言っといてください。あと、どいてください」
開口一番、リオは柔らかな作り笑いを浮かべてはいるが、凍りつくような冷たい声で言い放った。先輩は何か言いたげにしているものの、結局何も言わず、道を空けるように身体をずらした。
「ま、マズイことしたんで。先輩も逃げるか、シラを切っといた方がいいスよ」
店の受付にいた男のように、気味の悪い笑みを作って言った。先輩の横をすり抜けようとした時、二の腕を強く掴まれる感触があった。
「…何したんだ」
眉間に深く皺を寄せ、鋭く睨んでくる。何、というのは、既に知っているようだった。
「何って、分かってますよね。意地悪いなあ」
苦笑しながら答えると、腕の力が強まった。鈍い痛みを感じ、リオは作り笑いを取り払った。
「すまんな…その、なんで…どうして、あんなことやったのか、って意味だ」
力を弱めようとしない先輩をじろりと睨みつけ、ふてぶてしく言う。
「アンタなら分かるだろ、なんでンなこと聞くんだよ」
リオの豹変ぶりにか、答えに驚いたのかは分からない。先輩は目を見開いていた。そして少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「分からん、人を殺す気持ちなんて分かるか」
むすっとした表情で、きっぱりと言い切った。言葉には勢いがあり、怒気さえもはらんでいるように思えた。リオは何故か心外に思い、哀しみだか、苛立ちだかのような気持ちがこみ上げた。
「なんで分かんないんだよ、アンタがきっかけだったのに」
「なんだ、なんでそうなるんだ」
先輩は本気で意味が分からないと、不可解に顔をしかめた。
「アンタが、あんな店に連れていってくれたからだろ」
胸に渦巻いているどす黒いオーラを、そのまま吐き出している気分だった。鈍感で、価値観が合うような合わないような先輩に対する、本気の嫌悪感と、どこか寂しさに似た感情だと思った。先輩が一人で来たと聞いたとき、心から安堵した。同じ人間だと、思っていたからだ。何も言わずとも、何をしたのか、何故したのか。理解していると思ったからだ。しかし現実には、そうではなかったことを思い知り、自分勝手に傷心しているのだった。
「お前…馬鹿じゃないのか」
軽蔑と、憐れみのこもった目だった。
「うるせえぇっ!」
掴まれた腕を無理矢理引き剥がし、いちども、振り向きもせずに町の外へ駆けた。息を切らしながらも、口からは絶えず、ふざけんな、ちくしょう、と繰り返す声が漏れていた。
こうしてリオは仕事を失くし、隣の、そのまた隣の街である、タルシスに身を寄せた。
PR
COMMENT